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災害の恐ろしさ。

最初の報道では被害は少なく換算されていたのに、時間が経つにつれてどんどん拡大されて行く。
ソレは阪神淡路大震災でも同じで、まぁ高速道路が横倒しになってたからスゴイ事になってるのは解っていたにしても、やっぱりどんどん数字が上がって行く。
今回も、そうだった。
あの当時、ウチではトイレの外壁がそっくり落ち込んだとか(真下に落ちた。古い家だし家の裏側だし、波板貼ってそのまま使用している)タンス倒れかけたとか(支えたので無事)だったけど、一ヶ月は恐ろしさの余り普段着で寝て、何時でも逃げられるように準備をしていたりした。
怖さは、今もあの頃も変わらない。




あ~。。。何か、当時の事を思い出してしまったので書いてしまったけど。。。追記に移動しよう。
何時ものノリの日記では無いし、想い付くままに書いたので読んでいただけるような内容では在りません;;
えぇと、おやすみなさい。



 


当時、私の仕事は看板屋だった。
被災地には取引先があり、震災の後数日たたずのうちにひっきりなしに看板の取り付けの仕事が入った。
三宮でも被害の大きい場所のお店が多かった。
被災したお店のママさんが店内を片付け、電線が垂れ下がって赤い紙が張られた区域の狭間で、お店をする事で元気になれるからと営業を再開するのを聴いた。
朝、交通規制があり、4:00出発で行かないと神戸に入れなかったから、一日おきにそんな時間に出掛けては規制を逃れて看板を取り付けた。
道路が通行可能になるまではバイクで、社長自らが背中に物資やプレートを背負って行っていた。
看板のデザインは、白の看板に黒文字で店名が入るだけのシンプルなものだった。
赤や青が入るような看板は、一回も注文がなかった。
何とか電気が通り始めた頃は周囲が真っ暗で、電気の白さがとても明るく感じるとママさんが話していた。
そんな中で仕事を終える頃はまだ日が明け切っていない暗さで、うどんの屋台や、壊れかけたビルの中で商売をしている食べ物屋さんで朝ごはんとしてメシを食って帰るのは私達の毎回の風景だった。
私達が出来る事は、現地でお客さんたちの希望通りの看板を作って取り付けて、商売をしてもらって、早く普段どおりの生活に近付ける様にする事だと想ったので、食事をしてお金を使うなら大阪に戻ってからではなくこの町で、と常に決めていた。

駅前には、結構たくさんの人がいた。
老いも若きもなく、カメラを持って笑顔の「関係のない」人がいた。
何をされた訳でもないけれど、とても気分を害した事だけは確かだった。
かなり時間は経ったけれど、今でもとてもとても不快だ。

今回の地震の件で、チェーンメールやら何やら廻っている。
レポーターが、今のお気持ちは?なんて聴いている。
やって良い事をやって欲しい、そう願うばかりだ。

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